龍頭山 光明院 / 四国八十八ヶ所霊場 第26番札所

金剛頂寺

金剛頂寺

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弘法大師行状絵詞

金剛頂寺とは

金剛頂寺は、昔、金剛定寺(こんごうじょうじ)といった。場所は室戸崎(むろとのさき)の近く三十町あまりの所。標高200メートルの三角山の頂き近くにある。門前に立てば眼下に太平洋が広がり、東に室戸岬、手前に室戸の町が見え、雲は手が届く所を流れていく。弘法大師は、修行のたびごとに、ここに止住していた。まもなく、この景勝地に寺を建立する。
『弘法大師行状絵詞(ぎょうじょうえことば)』巻二「金剛定額(こんごうじょうがく)」に記されている金剛定寺である。

金剛頂寺の創建は、大同2年(807年)。開基は弘法大師空海である。空海は前年に唐から帰朝し、朝廷に「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を奏上(そうじょう)、太宰府の観世音寺に留まっていた。大同2年4月29日、平城天皇の許しを受け、空海に上洛の官符が下る。空海は、上洛途中に海路、金剛頂寺に立ち寄り、寺を建立したと考えられる。

平城天皇の勅命を受け建立された金剛頂寺は、七堂伽藍を配する重要な寺院となった。十世まで勅命で住職が任ぜられ、十六世住職、覚有(かくゆう)の頃まで寺運は栄えた。この頃、寺領は3500石、現在の室戸市全域にわたっていた。

鎌倉時代になると無縁所(むえんじょ)となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになる。西欧でいうアジール、つまり、侵すことのできない聖域として金剛頂寺は存在する。戦国時代に入ると次第に衰退、文明11年(1479年)の大火で多くの建物を焼失した。だが、江戸時代、山内氏が土佐藩主になると復興の一途を辿っていく。明治時代になり廃仏毀釈の嵐を受けながらも寺を守り続けるが、明治32年(1899年)再び大火に見舞われる。御影堂(みえいどう)、護摩堂以外は、明治の大火後の建立である。四国八十八ヵ所霊場、第26番札所として多くのお遍路さんを迎え入れ、地元では西寺(にしでら)と呼ばれ親しまれている。


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場面は、1200年あまり前。弘法大師は室戸の金剛頂寺の大師堂で修行をしている。そこに魔物たちが現れ修行を妨げようとした。場面は変わり、弘法大師は自身の姿を池に映し、楠の洞穴に自身の姿を描いた。すると魔物たちは寄り付かなくなったという。

この『弘法大師行状絵詞』(こうぼうだいしぎょうじょうえことば)は、弘法大師生誕六百年を記念して南北朝時代に制作された全十二巻の絵巻である。そのなかの巻二「金剛定額」(こんごうじょうがく)に金剛定寺として、現在の金剛頂寺が登場する。絵巻の絵は、宮廷絵所の絵師など4人、詞書(ことばがき)は、公家や僧侶、11人によって書かれている。重要文化財で、京都の真言宗総本山、教王護国寺〔東寺〕が所蔵している。