龍頭山 光明院 / 四国八十八ヶ所霊場 第26番札所

金剛頂寺

金剛頂寺

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行当崎と不動堂

空海と金剛頂寺

不動堂 ふどうどう - 空アコウの木が岩を抱え込み、シオギクが黄色い花を咲かせている行当崎に不動堂は建っている。裏は切り立った崖になり太平洋が広がっている。ここは空海が虚空蔵求聞持法を行った地として伝わり、水平線に沈む夕日が美しい景勝地である。本尊は不動明王、波切不動として室戸の漁師に信仰され、漁に出るときは、この不動堂が建つ行当崎の前で3回旋回し汽笛を鳴らして安全を祈願する。不動堂の法要は、旧暦1月28日。この日、 夜空に金星が瞬けば、その輝きが海を照らし光の道となってまっすぐに不動堂に入るという。金剛頂寺は明治時代まで女人禁制だったため、不動堂が女人堂の役割を果たした。

空海の修行の地 金剛頂寺を下ると、行当崎(ぎょうどさき)に至る。その昔、金剛頂寺は修行の寺だった。多い時には180人を越える修行僧がいた。大師堂の脇に残る一粒万倍の大釜は、修行僧が米を炊くのに使用したものである。その修行僧たちは、空海が修行したときのように山を下り、行当崎に出て、空海が修行した地で自らも修行に励んだ。行当崎が昔、行道崎といわれたのは、行(ぎょう)にいくための道だったからである。

行当崎 ぎょうどさき - 行当崎は、室戸岬と羽根崎とのほぼ中間に位置し、高さ40メートルを越える不動岩がある。行当崎から140キロの所にフィリピンプレートがユーラシアプレートの下に沈み込む南海トラフがある。昭和21年(1946年)の南海地震では、90~120センチほど隆起した。

1200年前の
修行地
空海がこの地で修行した1200年前と現在では、地表面はどのくらい隆起しているのだろうか。近年の地質調査では約6.4メートル隆起しているという。つまり、現在の国道55号線あたりが波打ち際だったことになる。空海が虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を行ったと伝わる御厨人窟(みくろど)や神明窟(しんめいくつ)もまた波打ち際だったのである。ならば、空海はどこで修行をしたのだろうか。

空海が見た室戸

空海は、24歳の冬に著した『三教指帰(さんごうしいき)』のなかで「阿国大瀧嶽(だいりょうのたけ)に躋(のぼ)り攀(よ)じ、土州室戸崎(むろとのさき)に勤念(ごんねん)す。」と修行した地を記している。では、空海がいう「土州室戸崎」とは、どのあたりを指しているのだろうか。その言葉は、教王護国寺(東寺・とうじ)に伝えられた中世の古文書、国宝『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』のなかに見ることができる。それによると土州室戸崎は「土佐室生戸国室生戸(とさむろおとこくむろおと)金剛頂寺」と記されている。空海は「土州室戸崎」で、逆巻く波濤(はとう)を繰り返す大海に向かい虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を行った。

100日あまりを有するこの行には、水や食料が必要となる。金剛頂寺には水源があり、行当崎に下る斜面には滝があった。

現在では、室戸岬の先端近くで修行をしたというイメージが定着しているが、空海が示した「土州室戸崎」とは、もう少し広い範囲を指していたのではないだろうか。上記の写真は金剛頂寺から見た室戸岬と室戸の町である。『東寺百合文書』が示すように土州室戸崎が「土佐室生戸国室生戸金剛頂寺」であれば、この景色こそ、空海が見た室戸といえるのではないだろうか。

『土佐日記』に見る海路
とさにっきにみるかいろ

土佐日記は、承平5年(935年)頃に紀貫之が任期を終えて土佐から京へ戻る旅路を綴った日記である。そのなかで風波が止まないため、室戸に停泊している記述がある。昔から室戸は航海の難所であった。平安時代に今様の歌を集めた『梁塵秘抄』にも室戸は歌われている。「土佐の船路は怖ろしや、室津が沖ならでは、島勢が岩は立て、佐喜や崎の浦々‥御厨の最御崎、金剛浄土の連余波。」金剛頂寺あたりにも波は連なり寄せていたと記されている。