龍頭山 光明院 / 四国八十八ヶ所霊場 第26番札所

金剛頂寺

金剛頂寺

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境内のご案内


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本堂 仁王門から21段の石段を上がった所に本堂がある。昭和57年(1982年)、檀家、信徒の寄進により、創建当時の本堂を京都の神護寺(じんごじ)に残されていた資料をもとに再建した。本瓦葺き、入母屋造りの建物である。堂内は、須弥壇(しゅみだん)を設け、中央の厨子内に本尊の薬師如来を祀っている。本堂再建後の昭和59年(1984年)に、前立の薬師如来、脇侍(わきじ)の日光、月光菩薩、不動明王を安置した。十二神将は、本堂再建より二十余年の歳月を経て完成に至った。厨子のなかの本尊の薬師如来は秘仏。御開帳は、毎年、大晦日より初薬師の法要がある1月8日まで。

薬師如来立像(中央)、日光菩薩立像(左)、月光菩薩立像(右)

仁王門 33段の女坂、42段の男坂。61段の厄除坂の石段を上がると仁王門がある。魔物を退散させる大草鞋が掛けられ、その奥から仁王が睨みつけている。

仁王像 阿形(あぎょう・左)の仁王は、目を見開き、独鈷杵(どっこしょ)を持ち、吽形(うんぎょう・右)の仁王は、口を固く結び強力(ごうりき)の姿をなしている。本堂再建の2年後の昭和59年(1984年)に造像した。

御影堂〔大師堂〕 みえいどう(だいしどう) - 本堂に背を向けるように建つのが御影堂、すなわち大師堂である。なぜ、背を向けているのか。その理由は、本書表紙にある『弘法大師行状絵詞(ぎょうじょうえことば)』巻二「金剛定額(こんごうじょうがく)」のなかにある。

絵詞の場面は、堂内で修行をする弘法大師。庭先には、赤や緑の肌の魔物や鳥の姿をした天狗たちがうごめき、弘法大師の修行を妨げようとしていた。大師は魔物を退散させるため結界をつくり、お前たちは近づくなと喝破した。そして大師は、寺の庭にある楠(くすのき)の洞穴に自らの姿を描いた。すると魔物や天狗たちは、足摺岬に逃げていったという。これが「天狗問答(てんぐもんどう)」といわれる場面である。以来、大師堂は、足摺岬の方角を正面に建立され、いまでも魔物や天狗を押さえ込んでいるのである。

絵詞の「金剛定額」で描かれている建物こそ、当寺の大師堂である。現在の大師堂は、寛文5年(1665年)、江戸時代に再建したもの。本尊は、弘法大師作と伝わる、秘仏、弘法大師半躰(はんたい)像である。鎌倉時代、京都の神護寺(じんごじ)を復興する際、この弘法大師像を模刻したと記録が残っている。御開帳は、正御影供の旧暦3月21日。

神護寺の板彫弘法大師像
じんごじのいたぼりこうぼうだいしぞう

京都にある神護寺(じんごじ)は、空海が唐から帰朝後しばらくして入住した寺である。その神護寺も平安末期、存亡の危機にさらされた。その様子を『平家物語』は、「扉は風で倒れ」「甍は雨露に侵されて、仏壇さらに露(あら)わなり。住持の僧も無」と記している。

空海ゆかりの寺の荒廃ぶりを知った僧、文覚(もんがく)は、神護寺の再建に乗りだす。『神護寺旧記』には、文覚が再建を願いでた「四十五箇条起請文(きしょうもん)」が残されている。この願いを後白河法皇は御手印(おていん)を捺(お)し了承した。なお、この御手印はわが国初の約束手形ともいわれている。文覚は流罪になるがその後、許され、源頼朝の荘園寄進などを受けて、神護寺の再建は本格化する。

建長7年(1255年)、後深草天皇が神護寺に行幸し、続いて天皇の第四皇子の性仁(しょうにん)法親王が入山して翫玉院(がんぎょくいん)という住房を設けた。

法親王は、正安4年(1302年)、仏師、定喜(じょうき)を金剛頂寺に遣わし、大師像を模刻させ、法眼円順(ほうげんえんじゅん)に彩色させた。現在、翫玉院は御影堂となり、このとき模刻した板彫弘法大師像は重要文化財に指定されている。像高約137センチ。お手本となった金剛頂寺の大師像は、現在も当寺御影堂の本尊である。御開帳は3月21日の正御影供(しょうみえく)である。

智光上人御廟 ちこうしょうにんごびょう - 本堂に向かい右手、スダジイやイスノキが生い茂る小道の先に小さな建物がある。二世住職、智光の御廟である。御廟を囲むように積み重ねられている石は安産祈願の石である。出産前に持ち帰り腹部に当て出産後に戻されている。

世に隠れたる聖人(ひじり)、智光
『弘法大師弟子譜四』に土佐金剛定寺の住僧とある。空海に投じて弟子になった。『弘法大師伝』では、「世に隠れたる聖人二人あり。一人は大和室生寺(むろうじ)の堅慧(けんね)大徳、一人は金剛頂寺の智光上人。堅慧は智恵の第一人、智光は行力第一の聖人」と記されている。
承和2年(835年)3月21日、空海が高野山にて入定したのを知り、同年、4月21日この地にて入滅した。

南無大師遍照金剛と唱えた十一世住職、蓮臺(蓮待・れんたい)
土佐出身の蓮薹は、はじめて御宝号を唱えた僧といわれている。それは承徳2年(1098年)6月7日、高野山からの帰り道での事である。『拾遺往生伝』には「途中、輿を樹の下におろし、服を整えて西方に向かう。手に定印を結び声をあげて唱ふらく。南無三身即一阿弥陀如来、南無大慈大悲観自在菩薩、南無弘法大師遍照金剛菩薩といへり。称礼して、端座入滅せり」とある。

西寺のヤッコソウ

秋から冬にかけて咲くヤッコソウは、雌雄両性の花をつけ、奴さんのような姿から名付けられた。植物学者の牧野富太郎が新種ヤッコソウとして発表。スダジイの古木の根に寄生する。西寺のヤッコソウは天然記念物である。智光上人御廟への小道、本堂の北面で見ることができる。

鐘楼堂〔鐘撞堂〕 しょうろうどう(かねつきどう) - 天皇の御願による勅命を持って建立された勅願寺の軌跡は、鐘楼堂の六本柱に見られる。梵鐘は先の戦争で供出して無かったが、昭和35年(1960年)室戸を代表する捕鯨人で、大洋漁業取締役の泉井守一(いずいもりいち)により寄進された。現在の鐘楼堂は平成15年(2003年)に室戸の船大工によって建てられた。

勅使門跡 ちょくしもんあと - 勅使門は天皇が行幸される際、または勅使が来山される時のみに開門する門であった。現在は、12段の石段が残っている。門の先には、灌頂堂(かんじょうどう)が建っている。

護摩堂 ごまどう - 御影堂とともに古い建物で、創建は江戸時代。本尊は理源(りげん)大師である。理源大師聖宝(しょうぼう)は京都の醍醐寺の開祖である。また、京都、教王護国寺(東寺・とうじ)の食堂(じきどう)に千手観音と四天王を造立している。煩悩を剣で打ち切ったことから修行僧に信仰され、修行の道場でもあった当寺の重要な建物である。

弁財天堂と池 べんざいてんどうといけ - 御影堂の階段を降りて右側に池に囲まれた弁財天堂がある。伝えによると弘法大師が護摩を焚き、その灰で本尊の弁財天をつくったという。現在の建物は、平成27年(2015年)12月23日に落成した。

姿見の池

五智如来石碑 ごちにょらいせきひ - 金剛界曼荼羅に描かれる五如来の梵字が刻まれた石碑である。嘉元3年(1305年)8月18日と刻字があり、県立歴史民俗資料館の調査で、高知県内最古の石板塔婆とわかった。

北向地蔵堂 きたむきじぞうどう - 弘法大師が水面に映った自身の姿を像に刻んだという姿見(すがたみ)の池の先、斜面を登った所に、北を向いている地蔵堂がある。この地蔵菩薩は、長年、金剛頂寺を守っている仏である。

魚籃観音菩薩像 ぎょらんかんのんぼさつぞう - 姿見の池に次ぐ、2番目の水源近くに魚籃観音はある。漁業に従事する人が多い室戸のため、魚供養と水産発達を祈りつくられた。観音菩薩は約50センチの鰹を手の上に乗せている。

捕鯨八千頭
精霊供養塔
ほげいはっせんとうしょうりょうくようとう - 鯨供養の梵鐘とともに、捕鯨八千頭精霊供養塔が二基ある。名砲手として八千頭を超える鯨を捕獲した泉井守一の建立。もう一基の供養塔は、やはり名砲手である山下竹弥太の建立。